唯一のわたしなど居ない、という話。

こんにちは。編集の道を歩むエーサです。

ぼくは、

「アイデンティティは近代の幻想だ」。

という一文を何かの本で読んで衝撃を受けたことがある。
(思い出したら紹介します。もしくは、知っている方いらしたら教えてください)。

これはどういう意味かというと、「唯一の」わたしは居らず、たくさんの自己があるのが本当のところ、という考え方、捉え方。

よく自分探しとか、自分で自分がわからないとかいうけれど、自分というのは肉体的にはひとつでも、精神的には本当に多様に存在する。

だからその多様な自己と向き合うことが大事ですよ、というお話だ。

不思議なことに日本語には、たくさんの一人称がある。わたし、ぼく、おれ、わし、あたし、我輩、拙者、小生など、実に多様である。

比較として英語を取り上げてみると、「I」だけだ。たったひとつ。もしかしたら、アイデンティティというのは、英語的な捉え方なのかもしれない。

もっとも、語源を辿っていくと、もっと違うところに根っこがあるのかもしれないけれど。

さて。多様な自己に向き合うとはどういうことなのか。ちょっとした問いを用意してみた。

季節は春、あなたはこれから小学校に通う新入生。初めて学校に通った時の気持ちを思い出しながら、通学路を思い出してみてほしい。

家を出てから学校までの道のりには、何があっただろう。家を出る前には、何を食べただろう。

通学路には、野良猫がいただろうか。道端には街路樹やお花があるかもしれないし、近所の犬に吠えられたかもしれない。

途中で友人と待ち合わせしていたり、遅刻寸前で走っている人もいたり。

各々の通学路が浮かんだでしょうか。

たぶん、学校までの道のりを綺麗にまっすぐ浮かべられた人は少ないと思う。人の思考は、まっすぐに進まない。非線形に、ノンリニアに進んでいくのが普通だ。

あちらこちらに寄り道をしながら、なんとなくの方向性だけはしっかりと持って、色々の刺激を受けながら前進していく。

時には後退もするかも。

多様な自己も、これと同じ。例えばお家が今の自分で、学校(行き先)が将来の自分だとしよう。すると、通学路に登場したさまざまなものたちは、多様な自己になる。

自己のイメージが発生して、他人と比較したり、本を読んだり、環境が変わったり、アタマの中にあるものは絶えず変化して、前進していく。

あなたは、あなた自身が思っているよりも、うんと多様なのだ。可能性に満ち満ちている。だから「唯一のわたし」を探すことなく、多様な自己と向き合おう。

その方が楽しく、想像力がめっぽう働くからだ。

ABOUTこの記事をかいた人

編集者。メディアづくり・チームづくり・コーチング(編集の)が得意。生きづらさを市場化すべく試行錯誤中。薬を飲むの苦手、手数の多い単純作業苦手、声の大きい人苦手、飲み会苦手。根性叩き直し中。目標はリオネル・滅私。