文章の善し悪しは結局のところ言葉と言葉のつながり方や文脈の心地よさで細かいテクニックはあくまでおまけでしかない。

どーも、えーたです。

試しに、推敲・校正をまったくやらない投稿。過去に段落分けゼロなのに読破してしまった文章に出会ったことがあるので結局のところ文章の善し悪しは言葉ひとつひとつの関係性とか流れなんだと思う。以下はただの書きなぐりです(※タイトルにつられて訪れてくれた方々、ごめんなさい。でも、読んでくれたらぼくは泣いて喜びます)。

つながっていく感覚を感じる。変化を感じる。語学学校で英語の勉強をしつつイシス編集学校という講座で編集の勉強をしているが、間違いなくインターンシップの仕事とつながっている。私生活ともつながっている。そして自分の感覚が変化していく。フィルターが変わっていく。人は情報を取り入れる際に、なんらかのフィルターをつかっているのだが、それを意識していることは少ない。つまり意識できれば仕入れる情報を変化させられるということだ。これが「編集」というやつの、いち行為だ。編集とは文章の構造を確認・修正したりするものだけを指すのではなくて、もっと幅広い「情報との向き合い方」のようなものだ。イシス編集学校ではこれを学んでいる。正直、かなり楽しい。そしてどういった変化がしているのかというと、情報に対する自分の意識の向け方を意識するようになった。今日は英語の記事を翻訳する仕事をしていたんだが、情報を拾う時の意識を意識的に変えてみた。まぁ普段からやっているのだがそれを「フィルタ」としてイメージしながら、それをとっかえひっかえやってみたのは初めてのことだった。英語の勉強をしているだけに(仕事・生活ともに必要性を感じているだけに)情報の入り方が違う。いままでとはまるで違う。かなり違う。言語化するのが難しいのだが、情報に触っている感覚がかなり違うのだ。以前よりももっと、かなりはっきりと質感を意識できるようになっている。質感というのは情報の密度とか重さとか触感とかそういった諸々のことで、情報っていうのはすべて質感を持ち合わせている。日本語であればかなり正確に、というかイメージができるというか、質感をそれなりに感じることができるのだが英語の場合はてんでダメだった。しかし今日の感覚では英語の質感をかなり掴めるようになってきた。本質にはまだまだ遠いのかもしれないが英語の質感をはっきりと感じとれたのは今日が初めての感覚だった。最近は体調を崩していたし「ダメダメだな自分」と少し落ち込み気味だった。しかしひと月立ってみて、わずかにでも積み重なったものがあるのだと実感した。もしかしたらものごとの違いがわかる繊細さは、積み重なったものを正確に認知して、継続させる力があるのかもしれない。実はものごとが継続しにくいのって「鈍感」なことが原因なんじゃないか?こうしてアウトプットなりインプットなりすることで変化を感じとって、それを武器にしたりなんだりああなにを行っているんだろう自分は。いやしかし今日のこの質感を感じとった感覚はかなりいけている。いけてるよ自分。ははっ。言語の修得は質感を捉えることにあるのかもしれない。意味を覚えるとか構造の決まりを覚えるとかが言語の修得だと思っていたが、言語の質感を覚えることで、言語が身体や脳になじみやすくなって、吸収が早くなるんじゃないか?ということは今日のこの感覚を覚えておけば語学の修得が早まる?のかもしれない。これはあくまでも仮説で、かなり大胆な仮説で、自分でもちょっと意味不明で、しかし「馴染む」っていうのはそーいうことなのかもしれない。どーいうことなのかって話なんだけど。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

編集者。メディアづくり・チームづくり・コーチング(編集の)が得意。生きづらさを市場化すべく試行錯誤中。薬を飲むの苦手、手数の多い単純作業苦手、声の大きい人苦手、飲み会苦手。根性叩き直し中。目標はリオネル・滅私。