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人生の目的を考える前に、人生の定義をしてみよう。

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どーも、えーたです。

人生の目的、という言葉を聞いて「人生とはなにか?」という定義があまりされてないよなぁと感じるので思うところを書いてみました。

Twitterのネタで、こんなつぶやきを見かけたことがあります。

【将来なりたいもの(年代別)】

10代:プロスポーツ選手
20代:社長
30代:部長
40代:鳥

まぁネタなのですが、妙にリアルですよね。
リアルなだけにクスッとした笑いがこみ上げる。

 

40代になると、さじを投げたくなるわけですね。
このリアルさ、年を取るほど希望を失っていくことを物語っていますね。

 

人生に意味を見いだせなくなるとか、そんな感じでしょうか。
でもぼくは、人生に大した意味はないと考えています。

 

無敵のソクラテスという本を読んで、考え方が変わりました。
池田晶子さんという哲学者(そしてモデルをやっていたこともある美貌の持ち主)が書いた本で、対話形式でソクラテスとその奥さん(?)がいろいろのことを話しています。人生をつきつめて考えていくと、人の一生は基本的に「食べて、寝て、排泄する」ことの繰り返しです。なので、それ自体に大した意味はないと考えるようになりました。人生とは「食べて寝て排泄する」ことの繰り返し。

 

価値ある人生とかよく聞いたりしますが、本当は人生とそれらは全く別の概念です。人生と価値とを関連づけようとすると辛くなるのだと知りました。そもそも独立した概念だから、結びつけようがないものなんですね。「価値」はあるものにとって有益かどうかという概念で、食べて寝て排泄することに、価値を付けようとするのはなんだか滑稽です。これは価値ある排泄行為だ!なんて言ったら、なんだか危ない匂いがしますものね。

 

食べて寝て排泄することに価値を感じられないからといって、それをやらなかったら死んじゃいますからね。といった風に考えていくと、意味付けをする対象は人生ではなく別の何か、ということになります。自分が行っている「行為」でしょうか。自分のしている行為は、誰かの役に立っているのかとか、そういった風に意味付けをすることならば、できそうですね。自分の行為によって、誰かが笑顔になった。だから自分の行為は価値のあるものだ(という表現はやや傲慢に感じますが)といった感じならば自然です。

 

しかしこのままでは、誰かの役に立たなければ存在が無価値、といった風になりかねません。ぼくはそうではないと思っています。人は基本的に、存在しているだけで価値があると思っています。身近な人が、当たり前のようにそばにいた人が突然いなくなったとき、とても寂しく・悲しくなる感覚。心に穴があくような感覚を味わったことが、1度くらいはあると思います。存在することのありがたみは、失った時につよく感じますね。

 

だから人は基本的に存在するだけで価値があるし、大丈夫。とりあえず存在していればよくて、せっかくだし、何かやる?くらいで大丈夫。こんなスタンスで大丈夫。人生の定義によって、各々の目的は変わりそうですね。ぼくの定義では人生それ自体にはあんまり意味ないので、人生の目的はないですね。誰と寝食をともにするか、といったところに重きを置く感じでしょうか。

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About エーサ(Eita Sato)

移動型のライター・編集者。3ヶ月〜1年スパンで拠点が変わる。得意ジャンルは旅・ライフスタイル・テクノロジー。インタビューが好き。 趣味は旅・読書・ランニング・喫茶店巡り。旅は、現地に紛れ込んでその土地の空気感を肌で感じ取るスタイル。

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