言語は世界の捉え方を規定する。まぁあくまで仮説ですが。たぶんあってる。どういうことかというと、「どんな風に外の世界を見ているのかをある程度決める」といった意味です。日本語には日本語らしい、世界の見方があり、英語には英語らしい、世界の見方がある。英語の勉強をしていたらそれを感じるようになりました。
日本語を用いたものの見方はそれに従い、英語を用いたものの見方はまたそれに従う。日本人として英語(第2言語)を学んでいると、それに気づく。
外の世界から情報を仕入れて、または自分の内側から情報が湧き出てきて、それをアウトプットする。例えば、目の前に林檎があったとします。わたしたちはそれは「林檎」というものだという共通認識をもっているためにそれを林檎だと理解できます。お互いに、それがなになのか、意思疎通を図る手段として言語があります。
この共通認識が世界の捉え方、ということなんですね。それが、言語ごとに異なると。それが、言語は世界の捉え方を規定するという意味です。英語を学んでいると、「おや、どうやら日本語とは大きく異なるぞ」という部分を時たま発見します。
特に、数の問題はそうです。例えば、水について。飲食店で「水」を下さいというとき、日本では「水」を下さいといえばそれでオッケーです。ところがぼくが今いるフィリピンでは「サービスウォーター」「ミネラルウォーター」といった風に呼び分けないと通じません。
また話の中で「水」を説明する際には、Glass of water なのか、bottle of waterなのか、またそれが幾つなのかといったことも明確にする必要があります。英語らしい表現を身につけるには、英語らしい世界の捉え方を身につける必要があるのです。
言語がそれを規定するというよりも、世界の捉え方が言語になったっていう感じだろうな。順番的には。それでも私たちは生れ落ちた環境によって、世界の捉え方がある程度決められてしまう。おもしろいなー。いろんな言語を習得していったら、その分だけ世界の捉え方を知れるってことだもんなー。
言葉にできなかったモヤモヤが言葉になった瞬間を想像すると、すごくワクワクしてくる。
なーんてことを考えて、ちょっとグーグル検索してみたら研究結果として証明されていた。以下、引用です(ソース:http://wired.jp)。
自動車の方向へと歩いている人物の動画を見せた。その様子を言葉で描写させたところ、英語を母国語とする人の多くは「人が歩いている」動画だと答えたのに対し、ドイツ語を母国語とする人の多くは「自動車に向かって歩いている人」の動画だと答えたのである。
英語は動きそのものに注目し、ドイツ語は全体的に捉える傾向にあるとのことです。英語ソースの方は、概要までしか読めませんでした(http://pss.sagepub.com)。
そういえば人が言語を獲得することになったきっかけは発情期を失ったことだそうだ。二足歩行になって、お互いの発情期サインがわからなくなったから確認する必要が出てきたとのこと。言語はセックスをするためにある、ということですね。半分は。