理屈は、感性の乗り物だ。
いつ頃からかはわからないのだけれど、理屈と感性とを分けて考えている人が多いように感じるようになった。特に顕著なのは、文系・理系という分け方だ。
文系の大学、理系の大学、文系科目・理系科目。他の言い方をすると、感覚派・理論派という言い方もよく聞く。あとは、左脳系・右脳系という言い方も聞いたことがある。
野球選手で言えば、文系や感覚派というのは、ミスター長嶋。理系や理論派の人は、イチローかな。芸能人で言えば、アンタッチャブルのザキヤマは感覚派、武井壮は理論派。
理系・文系という分類そのものは明快で画期的だと思うけれど、それが絶対的な決まりごとかのように解釈するのは、とてももったいない。
「理屈よりも感性」と声高らかに言う人は理屈をおろそかにしすぎているし、
なんでも理屈で考える人は、フィーリング的アプローチのパワーや面白さを味わえない。
この文章自体が理屈っぽいよねというのは自覚しているけれど、
わかりやすく書こうとすると、理屈っぽくなるのはご容赦願います。
あとこんな風に分析しているのはもっぱら分析的なアプローチだとも思うけれど、
ぼくは感性も大事にしている。というか、どちらかというと感性の方を重視している。
理屈では越えられない壁があると感じている(まだ、全然突き詰められてはいないけれど)し、感性というのは磨きにくく、衰えやすいと思うからだ。
ここで、どこかで聞いたことのあるセリフを思い出したので、紹介することにする。
「理屈でどうこうやるのは、二番煎じのやること」
当時はなるほど、と思ったけれど、いま考えると、これはちょっとおかしい。二番煎じというのは、すでにあるものを元に、分析して、解体して、参考にして色々をくみ上げること。だから、理屈でどうこうやるってのは、もとから二番煎じなんだ。
二番煎じのやることはつまらない、感性を光らせてこそクリエイティブなことができるんだ、という意見はわからなくもないけど(ごく最近までそう思ってた)、たぶんそうではない。
たいていのものは、すでにあるものを参照しているし、そこを学ばずして感性だなんだのと言ってつくられるものは大抵つまらない。新しいものなんてできるはずもなく、クリエイティビティなんて、発揮できっこない。陳腐なものしか、生まれない。
二番煎じのほうが、よっぽど面白いんじゃないかとさえ思う。
理屈は感性の乗り物だ。
理屈というのは
世の中にすでに発表されている理論や考え方。
あとは、解析・分析的なアプローチをすること。
ぼくはなんとなく、それを「乗り物」のような感覚で捉えている。
車、新幹線、飛行機、もっと平たく言うと「箱」とか「器」のような。
でも、じっとしていて動かないわけではなくて、縦横無尽にダイナミックに動く器だ。
その一方で感性は、
フィーリングとか、肌感覚とか、身体感覚という言い方をする。他には直感とか、センスとか。直感という言葉は結構好きで、学生時代は「直感で行動する」なんてよくいっていた。もしかしたら最近も「直感したことは大抵あたる」なんてセリフを言っていたかもしれない。
これらは磨くことはできないみたいに思われがちだけれど。そんなことはない。なぜかというと、なにかを作るための情報収集は、まずもって身体感覚から始まるからだ。
以下、フィーリング。
一番初めの情報収集は、外界の情報に、視覚や嗅覚や味覚や聴覚などのセンサーが反応するところから始まる。体育の授業や部活で運動の練習をして技術が上達するのは、まず情報を集める力を磨いているからだ。
いわゆる「慣れ」はセンスを磨いていると言ってもいい。
そしてこの感性と理屈とは、相容れないものではない。
感性で情報収集をして、理屈で加工・アウトプットすることができる。
理屈に従って情報収集をして、感性で加工、アウトプットすることもできる。
感性でアウトプット、とは言いつつも、最後は言葉なり音なり色なり、記号化するから純度100パーセントというのは無理なんだけれど。
理屈は世の中に広まっているものだから、つまり再現性がある。
だれでも使える便利な道具、普通乗用車だ。
ちょっと高度な理屈は、技能を磨かないと扱えない。
乗り物でいうと、新幹線や飛行機だ。
理屈というなの乗り物をいっぱい所有して、
時にはメンテナンスして、より速く走れるように加工をしたり、凸凹な道にも負けないように丈夫に組み立てたりしながら、同時に感覚も磨いていく方がよほどいいんじゃないだろうか。