給食は、残してもいい。

どーも、えーたです。

 

ぼくは、「給食を残してはいけないという」教育に対して、反対派なのですが、きょう確信しました。

 

給食は、残しておっけーです。

 

だって、食べても食べなくても、貧困問題の解決とはなんの関係もないから。

 

 

ぼくは昔から青臭い食べものが苦手で(特に生トマト)、幼稚園児のころから給食をよく残していました。残すたびに先生から「これを一切れ食べてみよっか」とか「これを食べたらお昼休みに遊んでおっけー」といった風に言われていました。小学校では食べ残しをしない同級生に「また残してる」と言われたり、班員みんな(30人のクラスだったら5人の班が6つとか)が給食を食べないと遊びにいけないといった日には「あとお前だけだぞ!」みたいな感じで責められることもありました。ぼくはそれが苦痛で苦痛で仕方がありませんでした。

 

 

中学ではそういったルールはありませんでしたが、高校・大学生くらいの時に友達同士でご飯へ行った際に「残すのは良くない」みたいに言われて「またか…」みたいに思った記憶があります。残すのは良くないという人の理屈をまとめると、こうです。

 

 

食べたくても食べられない人たちもいるのに、好きなだけ食べられる私たちが食べものを残すのは不誠実だ。

 

 

なんとなくわかる気もするのですが、その理屈を通すならばぼくの代わりに食べてくれれば万事解決です。「じゃあぼくの分も食べて」といった風に言うと「いやそれはお前の分だから」と言われます。ぼくにはこの理屈が理解できません。その場に残飯がなければいいんじゃないの?と思ったのですが、どうやら違うようです。

 

目の前にある食べものを完食しないことがどうやらよくないようです。でもこれって、「食べたくても〜」の理屈とつじつまが合わないですよね。よくわからない。食べてくれればいいのになぁ。

 

そして現在のぼくですが、発展途上国のフィリピンで生活しております。ストリートチルドレンたちを見かけるわけです。本当に貧乏な子たちもいれば、お小遣い稼ぎとして大人に操られている子たちもいます。そんな子たちとどう向き合ったらいいのか、といったことも考えたりします。給食は残してはいけない主義を思い出しました。

 

すまいの近所にいる子たちに食べものをあげたら、きっと顔を覚えられて、たかられます。ぼくはぼくの生活があるし、食べものを毎日まいにち分け与えられるほど裕福ではありません。自分の生活費を稼ぐので精一杯です。仮にその子たちに食べものをあげ続けたとしても、根本的な解決にはなりません。

 

「お腹が減った」と言って手を出せば食べものがもらえる、といったことを覚えてそれ以外やらなくなるだけです。そんな彼らが大人になった時には、なにもつくりだせない人間になるでしょう(あくまで推測ですが)。とまぁこっちに来てからそんなことを考えたりするようになりました。

 

そしてこのあいだ、核心的な出来ごとがありました。

ローカルレストランで食事をしていて、選んだおかずが口に合わなかったために残して去ろうとした時のこと。小学生くらいの年齢の子が「ねぇ、それちょうだい」と話しかけてきました。「うん、いいよ」と言うと、

 

「やった」

 

といった具合の表情を浮かべ、そのおかずをビニール袋に入れてその子は去っていきました。

 

このとき気づいたのですが、ぼくが食べものを残さなかったら、その子はおかずが手に入っていません。残したことでその子のお腹はちょっとだけ満たされた。話を給食に戻しますと、日本にいる学校の子供たちが給食を完食しようがしまいが、貧しい国のお腹をすかせた子供たちにはなんら関係がありません。むしろ、完食をした方が分け与えるものがなくなります。

 

幼稚園・小学校時代に食え食え言われていたあれは一体なんだったのかと、拍子抜けしました。食の大事さを伝えるってことか?と考えたりもしましたが、ぼくはむしろ食べられない経験(入院して鼻から管を入れて生活してたことがあります)をした方がよっぽど食べられることのありがたみがわかりました。

 

幼稚園・小学校当時のぼくは給食の時間が苦痛で仕方なかった。幼稚園くらいからだから、20年くらいか。20年経ったいま、ひとつの結論がでてすっきりしました。

 

給食は、残してもおっけーです。

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編集者。メディアづくり・チームづくり・コーチング(編集の)が得意。生きづらさを市場化すべく試行錯誤中。薬を飲むの苦手、手数の多い単純作業苦手、声の大きい人苦手、飲み会苦手。根性叩き直し中。目標はリオネル・滅私。