18歳の君へ。
健常者と障害者の間にある”溝”について、また障害とは何なのか、ぼくなりに考えたことを残しておきます。
健常者の言い分
まず、健常者の言い分。
人それぞれ、大なり小なり悩みを抱えている。悩んでいるのはあなただけじゃない、甘えてはいけません。健常者の言い分をまとめるとこうなります。
悩みを抱えていることは皆同じなのだから「あなただけが特別に苦しそうにしてはいけない」という主張。こういった、少し突き放した対応をしてしまう背景には「共感できない」ことが挙げられます。
もしも大変さに共感できるのなら「わかる」といった風に、多少なりとも共感の姿勢を示すはず。それができないのは、脳みそのつくりや身体の事情が違い、体験そのものが違うため。
たぶん、個人の資質にはよりません。共感できないことに寄り添おうとするのは至難の業。訓練(意識改革?)が必要です。
もうひとつの理由は「共感できなくても特に困らない」ため。すべての人に共感するのは、はっきりいってムリです。また障害を抱える方に共感してもしなくても、特に生活に支障はない。
そして割とみんな精一杯なため「なんでこんな簡単なこともできないんだ」「甘えるんじゃない」という意見が生まれるわけです。
これは逆も然りです。「理解しようと思う姿勢を1ミリも示せないのは何故なんだ、簡単なのに」というのが障害者の言い分。
障害者の言い分
障害者の言い分をまとめると「私(たち)は常に不利な状況に置かれている」ということ。
平均的な方とは、異なる種類の苦労を体験してきたためです。多くの場合「ただ生きるだけで大変だ」と感じていると思います。
ぼく個人の体験だと、言葉の発音に苦労した、聞き取りが難しい、そしてこの身体とは一生付き合っていく必要がある。が、共感してくれる人が周囲におらず「一生孤独感を拭えないかもしれない」という不安を抱えた経験があります。
助けてもらわないと(というか理解を得てもらわないと?)暮らしにくいのにも関わらず、なかなか共感を得られない(これがいちばんツラい)。精神的に摩耗した状態が慢性化しているのかなと思います。
弱音を吐いたときに「大変なのはあなただけではない」とか「それくらい大したことない」とか「気の持ちよう」とか「甘えだ」と言われた経験があり(たぶん人より多めに)、相談できる人が居ない…という具合に追い込まれます。
「うるさい!」と言い返せれば楽なのかもしれないです。
障害は”間”に生じる
障害は障害者が保有するものかというと、そうではありません。
手がない、足がない、目が見えない、耳が聞こえない、色が分からない、文字を読めない、学習ができない、これらは身体的・精神的な特徴。性質であって障害ではありません。
では障害はどこにあるのかといえば、その性質と周辺環境との間にあります。
性質と環境との相互作用が起こり「暮らしづらさ」が生じれば障害として認識される。「障害という現象」という捉え方が事実に近いのではないかと思います。
障害という現象が生じる理由は、社会の仕組みが、最大公約数的に設計されているため。平均的な能力を基準としてルールが作られている。
すべての原因をここに求めるのはかなり乱暴ですが、平均的な能力に合わせた仕組み(施設、ものづくり、働き方とか)を構築した結果、配慮されにくい人たちが生まれているのは事実だと思います。
それでも昔よりは大分マシなのかもしれません。バリアフリー、ユニバーサルデザインという考え方もありますし、施設の設計に組み込んでいるところもあります。
共感と理解
健常者と障害者の間にある溝について。
少しは溝が浅くなるかな、という方法のキーワードが「共感」と「理解」。
平均的な感覚の持ち主と、そうでない人たちとが、互いに共感することは難しい。でも、互いの立場を理解しようと努めることは可能です。
平均さんは、共感も理解もしなくても、特に困りません。でも外れ値さんは、共感はともかく理解を示してもらわないと過ごしにくい。
しかし過去の経験から歩み寄る気力が湧いてこない。故に互いに互いのことが分からない。という現象が起こりうる。
では実際にどう考え方を変えていくかといえば、あまり重く捉えずに「性格が合わへん」くらいの感覚でいるのがひとつの解です。
友人どうしだけど互いの趣味はあんまり共感できない、みたいな。「ちょっとハードな映画が好きなんだね」とか、「ゲームオタクなんだね」とか「民族音楽が好きなんだね」くらいの感じ。
どう頑張っても折り合いがつかねえ、と諦めるのはもったいない。肌感覚ですが、人はこの4つくらいの属性に分けられるのかなと想像しています。
- 非常~に快適に過ごしている人(お金持ちとか)
- 教養が深い人
- 平均的な人
- 余裕のない人
カテゴライズはあまり好きではないですが、説明しやすくするために用いました。暮らしに余裕があったり、教養が深かったりする人たちは、共感はできずとも理解を示す姿勢をとることができます。
平均~余裕のない人は、自分の生活を保つことで精一杯。理解を示すことも難しい。なかには「配慮?甘えんじゃねえ」と攻撃に転じる場合もある。
人から聞いた話ですが、障害を抱えている人どうしでいがみ合うこともあるようです(ぼくは遭遇したことがないのですが)。こうなってくるともう障害の有無は関係なくて、人間関係の問題なのだろうなと思えてきます。
まとめ
立場を入れ替えて想像力を働かせてみること。これがお互いに冷静になれる方法だと思います。
とはいえ、言うは易し行うは難しです。ぼくも思考停止することがしばしばあります。共感できない相手の言動に対して「なんでそう思うのか」をいったん想像してみるのは至難の業。
でも取り組んだほうが、思考停止するよりは楽になれると思います。最近わかってきたのは「なんとなくの雰囲気で否定したがる人が一定数いる」ということ。
カギは、知ること、知ろうとすること。世の中をよく知ること、不足している部分をどう補うか考え続けること、取り組んでみること、これらを続けていく姿勢が大事だと思います。