どーも、えーたです。
本日、2015年2月21日は、ぼくの誕生日です。
目が覚めて時計(iPhone)を見ると、午前3時でした。「もう1時間だけ寝て早朝仕事しよう」とiPhoneのタイマーをいじろうとしたら母からラインが届いていることに気づく。通知には「ハッピーバースデー…」の文字。ああ、そういえば今日は誕生日だったと、メッセージを開く。その内容に、わたくし朝から号泣してしまいました。
その理由はStorys.jpに投稿したお話。
ぼくが寄稿した中学時代に言語障害を自覚して衝撃を受けたお話を母が偶然にも目にしたことがキッカケでした。ぼくは中学時代、やや不登校気味で1学期に10〜20日くらい休んでました。もともと学校という空間は好きじゃなくて、「なぜ毎日、同じ時間に同じ場所に行かなければならないのだろう」などと考えていました。
もともと休みがちだったところに、言語障害をネタにしたいじめも加わり(詳しいことはリンク先に書いてます)、学校に行くのがとてもとても億劫になりました。なぜわざわざ自ら苦痛を受けにいかなきゃならないんだと。いじめのことは家族の誰にも言っていなかったので、おばぁちゃんからは「行きなさい!」とよく言われていました。居場所がどこにもない感じでした。具合が悪いふりをしていれば学校は休めたので、お腹が痛い、頭が痛い、明日はどこを痛いことにしようかなと休む理由を探す日々日々日々。あとは、ただ空を眺めたりとか。寝室の窓から見ていた曇り空をいまでも思い出します。
中学2年生くらいからそんな日々を送っていました。そうなった最大の原因は「自分が障害者であることの自覚」と「それをネタにいじめられていたこと」と「過去に自分が障害者を差別していたこと」が一度に襲ってきたことでした。障害者を差別していた自分自身が障害者であるという、矛盾を孕んだ衝撃。障害者とばれる=差別されるという認識。このふたつを心に抱えて、けっこうなダメージを負いました。ぼくが言葉を発したら、言語障害がばれて、差別される。人と関わるのが怖くなりました。だからけっこうふさぎ込んでしまって。
言語障害が話の中心のようになっていますが、今日うけた衝撃はさらに深いところ、ぼくが生まれた時のお話。そもそも言語障害の原因が「口唇口蓋裂」という障害を持った状態で生まれたこと。いわゆる奇形児というやつです。生まれてすぐに(?)手術をしていま現在はけまぁまぁきれいに治っています。中学生当時はそれを自覚してからというものの、自分のことしか見えなくなってしまいました。いや向き合うのすら拒んでたというか。
いまはその辺の整理はついていて、母からもらったこの障害は財産だと思っています。ぼくが生まれた時、母はどんな気持ちだったのか、なぜ障害についてなにも言わなかったのか。そういえば何も聞かされなかったなぁと思っていたところ、母からのメッセージが届きました。以下、そのまま引用です。
ハッピーバースデー。
偶然にも英太の、storys.jp
を、読みました。
中学の頃、休んでいたのは、きっとわかったのだろうと、思ってました。
苦しみをよく乗り越えたね。
さすが我が子です。
何も話さないでいた親を恨んだ事でしょうね。
障害を持たない子供として産んであげたかったけど、500人に1人の割合で、私に授かった命でした。
私には障害を持った子として育てるのではなく、この子は、みんなと一緒、元気な子として育てたかった。
だから、あえて、説明をしなかったこと、申し訳なかったね。
辛い過去はあるけれど、夢を持って生きてください。
私はずっと応援しています。
泣きました。いっぱい泣きました。幸い夜中だったので、ゲストにもばれることなく。外が明るくなる頃には落ち着いてきて、なんとか平静を装って今日という日を過ごしました。でも、落ち着かなくて、書きたくなって、書きました。
いままでは自分の誕生日なんて気にしたことなかったけど、最高のプレゼントをもらった特別な日になりました。心の中で渦巻いていたわだかまりが、ほどけていくような感覚がしました。
いままでは、応援してくれているのはわかっていても、母はどこか遠くにいるようで、ぼく自身も近くにいないような感じがしていました。その隔たりが今日、なくなりました。
母の気持ちも、なぜ説明をしなかったのかもよくわかった。恨んだことなんかないし、むしろ感謝している、ぼくの気持ちも伝えた。もう大丈夫。いままで抱えていた漠然とした不安はこれだったのか、なんで気づかなかったのか、気づいてないふりをしていたのかな。でも、もう大丈夫。