劣等感を克服したい。
自分に価値がないと思ってしまう感覚は、いったいどこから来るのか?
この感覚に苛まれない方法があるならば、知りたい。
これは過去の自分の悩みなのですが、劣等感の意味を調べてみると、言葉のイメージと実際の意味は少し異なることがわかりました。
端的にいえば劣等感は克服する類のものではなく、むしろ積極的に受け入れたほうがいい、ということです。できるだけわかりやすく紹介します。
劣等感は自らの価値判断に関わる感覚
劣等感は、精神分析学者のアルフレッド・アドラーによって作られた用語。
アドラーの定義によれば「劣等感」は自らの価値判断に関わる感覚です。
例えば、「自分はネガティブだから嫌われるんだ…」とか「身長が低いから(スポーツで)活躍できないんだ…」とか「学歴が低いから市場価値がない…」という風に、自らに値付けをする心理的な傾向のことです。
上記のような価値判断は誰しもが一度はしたことがあると思います。
しかしアドラー心理学では、自らの特徴を言い訳として用いてる状態は「劣等コンプレックス」と呼んでいます。
劣等感と劣等コンプレックスは似て非なるものということです。
参照元:
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え岸見一郎 古賀史健 ダイヤモンド社
日本大百科全書(ニッポニカ)
劣等感と劣等コンプレックスの違い
劣等感と劣等コンプレックスの違いを端的にいうと、努力する活力になっているか否かです。
例えば「周囲の人と比較して身長が低い」という身体的特徴のあるスポーツ選手がいたとします。そのスポーツ選手が、技術を磨いて他の選手に負けないものを身につけるぞ、と奮起したとしましょう。
このように、自らの欠点を補うような行動を起こすことは、劣等感の働きによるものです。
一方の劣等コンプレックスは「自分が活躍できないのは、身長が低いせいだ」(=身長さえ高ければ、活躍できているはずだ)と、考えはじめている状態を指します。自らの欠点を、努力をしない言い訳として用いていますよね。
劣等感は行動する原動力、劣等コンプレックスは行動しない言い訳として機能しているといえます。
価値判断は主観的なもの
劣等感と劣等コンプレックスとを分ける要因は「自らの特徴をどう捉えるか」です。先の例でいえば「身長が低い」という特徴をどう捉えるか、という問題になります。
スポーツの場合、身長が低いことはハンデになることが多いと思います。
が、それをものともせずに活躍している選手がいることも事実です(例えばバスケットボール選手の富樫勇樹さんは、身長167cmと小柄ながらNBA選手になっています)。
富樫選手のような方は非常に稀だとは思いますが、ここで覚えておきたいのは、解釈の仕方は自らの手に委ねられているという点。
ネガティブだとか身長が低いとか学歴が低いとかいう情報にどんな意味付けをするかは自分次第です。
少しぼくの話をしますと、自分の障害を卑下してふさぎ込んでいた時期があります(気になる方はプロフィールをご覧ください)。
それでも現在は「むしろ強みにしてるよね」と友人に言われるくらいには克服しています。
健全な劣等感とは
アドラー心理学に登場する「劣等感」は決してネガティブなものではなく、むしろ誰にも備わっており、活動のエンジンになるもの。
しかし下手をすると劣等感コンプレックスの状態に陥るケースもある、という風に読めると思います。『嫌われる勇気』という本には以下のように劣等感が健全に働く条件が書かれています。
健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです
他人と自分とを比べるのではなく、理想の自分と現在の自分とを比較して、今よりも理想に近づいた状態になろうとする。これが健全な劣等感ということですね(理想的な自分像を形成するプロセスに他者との比較がありそうですが)。
アルフレッド・アドラーは「神経症」という心の病を取り扱っていたお医者さんなので、それを取り除く方法として劣等感という心の働きに注目したのだと思います。
まとめ
「劣等感」(という用語)について抑えておきたいことは以下の3つ。
・自らの価値判断における感覚(心理的傾向)のこと
・劣等感は主観的なもので、意味付けが重要
・健全な劣等感は、前向きになるエンジンの役割を果たす。
劣等感という言葉のもつ後ろ向きなイメージを変化させるだけでも、ずいぶんと楽になると思いますよ。