どーも、えーたです。
ライターとして活動を始めてから大体2年くらいが経過しました。 ここ最近は、ライティングよりも編集の方が多いかもしれません。 書くというよりも、
企画して 、構造をつくって、情報を集めて並び替えて、「届けっ!」と日々、放っている感覚です。
で、最近(というかずっと)迷うのが、見出し・タイトル付け。 タイトルに関しては、読んで欲しい人に刺さるようなモノってなんだろうかと迷うし、見出しは本文を要約したものがいいのか、いやいやそれ一辺倒だとどうなの、とか。
そんなことをアレコレ考えた結果「コンテンツは身体感覚からはじまる」という仮説が生まれました。
まずはそちらに行く前にお世話になった本の紹介を。書く・読む、聞く・話す、いわゆる「コミュニケーション」について、これはと思ったものがありました。
『知の編集工学』にあったのですが、我々は「エディティング・モデル」というものを持っていてそれを互いに交換し合っているのだそうです。
人はコミュニケーションをする中で何かとなにかを交換していて、それが何かというと「意味」なんだとか。コミュニケーションは、意味の交換なんですね。
じつは、新しいコミュニケーション・モデルはもっと明快につくれるのである。情報コミュニケーションのプロセスを「メッセージを交換する」と見るのではなく、エディティング・モデルを交換する」ととらえなおすことなのだ。
これだけだとパッとしないと思います。コミュニケーション理論にはいくつかのモデルがあるので、本書を参考に、それも合わせて紹介します。
シャノン・ウィーバーの通信モデル
これは、ある場所から別のとある場所へ、無線ラジオのような仕組みで情報が「等価交換」されているというモデル。
まずは情報をトランスミッターで記号化(エンコード)して、ノイズにある通信経路に送り出す。それを受け取ったレシーバーは、記号をもとに戻す(デコード)。そして目的地に情報がたどり着く。
これは情報の内容は加味していなくて(言葉であれば、文字だけ届けばいい感覚)、人間のコミュニケーションとしてはちょこっと乱暴。
そのためトランスミッターとレシーバーの部分に人間が差し掛かるモデルが考え出されました。
社会学のコミュニケーションモデル
これは、人間の感覚器官がエンコード・デコードしているというモデル。脳から情報が発生し、感覚器官へと伝える。人が何かを書くときは腕や手、話すときは口へと情報を伝えるイメージです。
文字や言葉を受け取った相手は、感覚器官を用いてそれを脳へと伝え、各々の解釈が始まります。先ほどのモデルに、脳と感覚器官(手足、耳、鼻、口など)が加わりました。
これでもまだ、コミュニケーションにエラー(勘違い)が生じることを説明するには不十分な感じです。エンコード・デコードを繰り返して、文字や言葉を交換している。
そして著者の言う「意味の交換」をしているのが以下のモデル。これがめちゃめちゃしっくりきました。
編集の贈り物交換モデル
「エディティング・モデル」を使って意味の交換をしているというモデル。エデティング・モデルとは何かというと、未だぼくは言葉にできません(申し訳ありません)。
ものごとを解釈するための枠組み、みたいな感覚ですね。でも、情報自体もエディティング・モデルを持っているし、コミュニケーションをとる中でゲリラ的に生成されることもある。
はっきりと言えるのは「エンコード・デコードするものではない」ということです。
で、そのエディティング・モデルを使ってどうコミュニケーションをとるかと言うと、お互いにそれを突きあわせます。
コミュニケーションという「場」が発生して、そこに意味のエディティング・モデルを投げいれる。次は解釈をするエディティングモデル(網みたいな)を投げいれて、引っかかったものを見て、お互いに意味を交換していく。
人は必ずしも、情報をそのまま、全く同じ状態で交換しているわけではないし、多少なりとも違った状態で交換していると考える方が普通ですよね。
ポイントは、我々はお互いに「意味を交換している」ということ。意味を生成するのがエデティング・モデル、です。
コンテンツは身体感覚からはじまる。
以上を踏まえて、ぼくは「コンテンツは身体感覚から始まる」という編集方針を立てました。
コンテンツは「中身」とか「内容」を意味しますよね。ちまたで流行のコンテンツマーケティングでは企画内容とかがそれに当たります。
で、「それってどこから来るの」と考えたときに思いついたのが「コンテンツは身体感覚から始まる」という方針です。
『知の編集工学』から、インスピレーションを受けた文を以下に引用します。
どのような生物がどのような編集のしくみをもっているかということが、地球上の生物活動の本質である。なぜ、このように言えるのだろうか。「情報」は生命とともに生まれ、「編集」は生命とともに開始したからである。
ずっとずっと前に、情報は生物からやってきたのだ。
私たち人間のスタートも分節化ではじまった。
地球が生まれて、生命が誕生して、たくさんのものが生まれた。近年ではIT技術が目覚ましい進歩を遂げて、日夜さまざまなサービスが生み出されている。これらのもとをたどっていくと、分節化(情報をわけること)からいろいろのモノ・コトが始まっているんですね。
そう解釈しています。
インタビュー編集なんかをしていると特にそうなのですが、相手の体験だとか考え方、人となりをできるだけ新鮮な状態で伝えたい思いに駆られます。
それの始まりは何かというと、その人の身体感覚なんですね。感じたこと考えたことが言葉なり何なりになって、コミュニケーションが発生する。
外の世界との接点は、感覚器官です。人の考えなど「イロイロを構成するものの始まり」は身体感覚ではないか、と考えました。
となると、文章を読むとき、人と話をするとき、またそれを誰かに伝えるときに注意を向けるべきは「身体感覚」なのだ。これがぼくの仮説です。
なにかを読むときは、書いた人の身体感覚に思いを馳せますし、文章を書くときは読む人の身体感覚に思いを馳せます。
見出し・タイトル付けに悩んで生命の誕生まで話が及んでしまいましたが、とっても奥が深いので楽しいです。
コンテンツの始まりは、身体感覚です。という仮説。